「江戸期の日本は貧しかった」というイメージを持っている人が、今でも存在します。
そしてそれを強調するかのような発言をしていた歴史学者や知識人は、確かにいました。
なぜそうなるのかと言えば、それは「海外と比較する」ということがあまり行われていなかったというのが一番の原因です。日本の江戸期に相当する時代のヨーロッパでは、大戦争が繰り返されていました。
戦争による難民も当然発生していたはずで、また現代につながる民族間・宗教間闘争も勃発していました。
そうした問題がほとんど発生しなかった日本は、果たして「貧しい国」だったのでしょうか?
目次
植民地を欲しがらなかった江戸幕府
武田信玄が示した日本の農業の方向性は、江戸時代に開花します。
江戸幕府の創設者徳川家康は、武田信玄に大敗して討死寸前にまで追いやられたという経験があります。ですが同時に、信玄を尊敬していました。滅亡した武田家をどうにか復興させようとしていたほどです。
普通はどこの国の権力者も、自分を追いやろうとした競争相手の記憶は抹殺しようとします。あるいは競争相手を「稀代の大悪党」に仕立て上げ、それを討伐した自分を「正義の使者」にしてしまいます。
ですが家康はそれを選ばず、信玄が存命中に行った農業政策の「記憶」もそのままにしておきました。
そしてここからが肝心なのですが、徳川幕府はある期間を除いて、外征にはまったく興味を示しませんでした。
この「ある時期」というのは、17世紀中葉。明朝復興を目指す鄭成功が、日本に援軍を求めました。そしてこの時、紀州徳川家の徳川頼宣が外征に積極的だったと言われています。
ですがその計画は、結果的に頓挫します。そしてそれ以降、江戸幕府は外征計画を一切立てない路線を貫くことになります。
「搾取」の上に生きていたヨーロッパ
外征をしない。それは「植民地を持たない」ということです。
たとえばイギリスの文化の中で、紅茶は非常に重要なポジションを占めます。ですがイギリス国内では茶は生産できません。この国は茶を作るには、気温が低すぎるからです。
だからインドやスリランカに茶のプランテーションを設け、そこで商品を一括生産させていました。インドもスリランカも、かつてのイギリス植民地です。
イギリスは茶だけではなく、あらゆるものを植民地で生産させています。平たく言えば「自国で生産できないから植民地で作らせる」ということです。
江戸幕府が存続していた頃のヨーロッパは、世界中に建設した植民地からの収入で成り立っていました。近世史は「搾取の歴史」です。
逆に言えば、その頃の日本は「搾取の歴史」から自由だったということが分かります。幕府は全国の諸藩に対して、「特産品開発に力を入れるように」という指令を度々出しています。植民地を持たなかったからこそ、あらゆるものを自力で開発するしかなかったのです。
大砲と反物
一次生産の充実は、あらゆる産業に枝分かれします。
日本は自国で綿や絹を生産できたことで、繊維産業が発達します。その中で現れたのが、筑後久留米の井上伝という女性。この人は久留米絣の創始者で、日本の繊維業を大きく前進させました。
そして伝が絣に自由な絵模様をつけるにはどうしたらいいかを思案していた時、そのアイディアを提供したのが「東洋のエジソン」田中久重です。この久重は日本独自の精密工業の第一人者として、ここ10年ほどで広く知られるようになりました。
かつては「江戸時代は世界の進歩から取り残されていた期間」として教育現場でも説明されてきましたが、果たしてそれは事実でしょうか? そもそも西洋の機械工業は「戦争に勝つため」という使命があったことを忘れてはいけません。
近世のフランスの工業技術は、戦争需要で支えられていました。さらに細かく言えば、フランスでは威力のある大砲を作るために機械工場が建設されました。18世紀中葉に制定されたグリボーバル大砲運用システムは「工業規格の統一」という概念をもたらしましたが、いずれにせよ西洋の技術的発展は戦争とともにあったのです。
それに比べたら、日本のテクノロジーは地産地消主義の農業の上に成り立っています。あまりに平和すぎてあくびが出てしまいそうですが、そうであったからこそ列島各地に色とりどりの物産が生まれました。
我々日本人は、今もその延長線上に生きているのです。
以下、後編。