【農業大国・日本】痩せた土地の恵み(前編)

【農業大国・日本】痩せた土地の恵み(前編)

こんにちは、「戦う青色申告者」こと澤田真一です。

今回から歴史連載第2弾『農業大国・日本』をスタートします。

我が国日本は、極めて地域物産に恵まれています。こう言うと意外に思われるかもしれません。日本は食料自給率が100%に満たず、近年は高齢化で農業・漁業分野は衰退の一途ではないのか――。

その一面もあるのは、事実です。ですが日本の一次産業には、決して多くはない生産総量を補って余りある生産品目の豊富さがあります。

それが意味するものとは、一体何でしょうか。

目次

静岡の茶葉

私の自宅兼事業所は、はっきり言って田舎にあります。

すぐ近くには足久保地区という、茶の生産で有名な場所があります。ここまで来れば南アルプスの玄関口。目の前には緑の山々が広がっています。

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4月は茶摘みの季節。薄緑色の茶葉が日光を浴び、今か今かと収穫を待っているようです。

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茶は中部静岡の一大産業。全国規模で見ても鹿児島、京都と並ぶ一大産地です。収穫のシーズンには地元のハローワークがあちこちの男どもに電話をかけまくり、茶の精製工場のために臨時要員を確保します。私にもその連絡がありましたが、もちろん丁重に断っています。だって働いたら負けじゃん。

それにしても、不思議な話です。そもそも静岡は、茶を作るにあまり適していない土地ではないでしょうか。

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なぜかといえば、静岡には遅霜という現象があるからです。

そもそも、茶は熱帯で盛んに生産される品目です。世界的に有名な茶の産地は、みんな赤道に近い位置にあります。逆に言えば、茶は寒さに弱い作物なのです。新芽に霜がついたら、すぐに枯れてしまいます。

ですから静岡県の天気予報には「遅霜情報」というものがあります。これは茶の収穫期限定に告知されるもので、地元の茶農家はこれを見ながら霜を防止するファンのスイッチを操作します。

そういう手間を覚悟で、静岡の茶農家は汗を流しているわけです。

稲作に不向きな日本

そしてそれを言ったら、米だって同じです。

稲は茶と同じ熱帯原産の植物で、本来ならば赤道付近で栽培するのが一番最適です。現に東南アジアでは、米は年3回収穫されます。日本人から見れば「年3回も米ができるの!?」というものですが、むしろ年1回しか米を収穫できない日本が例外です。

そして「熱帯原産の植物」ということは、冷害に極めて弱いということでもあります。東北地方や北海道が「米どころ」になったのは、戦後『農林一号』という世界初の寒冷地向け品種の稲が普及してからです。それ以前の米どころといえば熊本か石川、そして日本の植民地だった台湾でした。

その農林一号の開発に命をかけた並河成資は、本来ならば歴史の教科書に載せなければならない人物です。彼の開発があと10年早かったら、値段の安い台湾米に押されていた国産米生産を復興させ、昭和初期の東北の困窮を救っていたという歴史学者もいるほど。それはすなわち、二・二六事件を回避できたかもしれないということです。

このように、日本の農業というのは「農業に不向きな土地ほど生産品目に恵まれている」という傾向が強いのです。

甲斐の虎と大豆

我が国の農業史で欠かすことができない人物は、先述の並河成資ともう1人、武田信玄がいます。

武田信玄は戦国大名という以上に、物産振興者としての側面が強い人物。それには、彼の本拠地だった甲斐の農業事情があります。

そもそも甲斐は、土地が痩せている上に平地が極端に少なく、さらに水害が多い地域でした。もう一つ付け足せば、戦国時代は「小氷河期」とも表現するべき気象状況で、全国的に米の収穫量が少なかったのです。だからこそ戦乱の世が始まったわけですが。

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いずれにせよ、信玄のいた甲斐や彼の支配下にあった信州は、農業をするには最悪の土地です。ですがそうであるが故に、今の山梨県の郷土料理や物産はこの時期に形成されたのでした。

まず、信玄は大豆作りを奨励します。大豆というのは痩せた土地でも栽培可能です。そしてそれを味噌や醤油に加工します。すると味噌漬けや醤油漬けという形で、食料の長期保存が可能になります。

「食料を長期保存する」ということが、戦争計画においていかに重要か。軍隊を遠征させる時に、彼らを支える食料がすべて生ものだったら大変です。行軍の最中に食べるものが腐ってしまったら、戦わずに撤退せざるを得ません。こういうことは、世界史上しばしば見受けられます。

ですから「強い軍隊」は「兵が飢えていない」、それはすなわち「食料の加工技術を持っている」ということなのです。もともと甲斐は食料増産に不向きな土地であったからこそ、そうした「戦争の基本」を誰しもが心得ていたというわけです。

信玄が示した「自分たちで工夫する」食料計画のコンセプトは、戦国時代を過ぎたあとも大きな影響力を発揮しました。

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