【秀吉の掌で】人脂のべとつく平和(後編)

【秀吉の掌で】人脂のべとつく平和(後編)

前編中編に続き、最終話!

豊臣秀吉が徳川家康を配下に置いたことで、その他の大名は次第に秀吉に従うことを余儀なくされます。

それはまさに「利益確定」で、特にこれから伸び盛りの大名にとっては屈辱以外の何物でもありません。ですが一方で、秀吉に降ることで大きな利益を手にする者も現れました。

その一人が、肥前の大名龍造寺家に使える鍋島信生という男でした。

目次

鍋島の下克上

豊臣秀吉が全国の諸大名を自らの配下にする際、「家老格の者を大名にする」ということをしばしば行っています。

毛利家の重鎮小早川隆景がその代表格です。秀吉としては、隆景を毛利家から独立させることによって毛利そのものを細分化させることを狙っていました。ですが隆景は秀吉からの申し出を幾度も断っています。それもそのはずで、毛利と吉川、そして小早川は16世紀後半の時点ですでに同じファミリーです。

ですが、中編で登場した龍造寺隆信と鍋島信生の場合は違います。彼らはもとは従兄弟同士で、さらに隆信の生母が信生の父の後添えになっています。ただそれでも、毛利ほどの強い血縁関係はありません。

そして隆信が戦死した以上、信生より強い者がいなくなったという事情もあります。龍造寺の家督を継いだ隆信の息子の政家は、次第に隅へ追いやられるようになります。早くから秀吉とパイプを持っていた信生は、龍造寺と鍋島に対して別々に所領を安堵するよう嘆願し、それを叶えます。

それと同時に秀吉は、政家に隠居するよう命令を発します。

つまり、この時点で肥前の実権は鍋島家に移ってしまったのです。

その後、信生は名を「直茂」と変えています。これは非常に大きなことです。主君が自らの名前の下一字を家臣に与えるということはよくあり、だからこそ「隆」→「生」という構図だったのです。「今川義」→「松平康」もそうですね。ですがそれを捨てるということは、「主君への忠誠心はもうない」という意味です。

『葉隠』編纂の理由

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それにしても、鍋島直茂は非常に幸運でした。

何しろ主君である龍造寺と一戦も交えることなく、文治主義の波を利用して無傷で下克上に成功してしまったのです。 こんな大名は他にいません。

ですが後年佐賀藩で編纂された『葉隠』という本は、「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」と書き主君のために討ち死にすることこそ武士の名誉と説いています。作家の井沢元彦氏は、これは家臣の裏切りを恐れた鍋島家が編纂したからこそこのような内容になったと述べています。

それはそうでしょう。鍋島家の戦国史を見れば、「死ぬ事と見つけたり」どころか紙と筆を使った策略により主君を追いやったということが一目瞭然です。ちなみにこのことは幕末の江戸っ子の間では常識で、嘉永年間には佐賀藩のお家騒動を題材にした妖怪物のお芝居が上演されています。有名な「佐賀化け猫伝説」です。

そして、鍋島家がその後の明治維新に多大な貢献をしたという事実もできればここで書きたいのですが、その話はまた後日。

平和の作り方

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豊臣秀吉が諸大名に与えた衝撃、それはすなわち「筆で物事を動かす世の到来」です。

平和はなぜ達成されるのか? それは武力で崩すことができない絶対的権限が確立されているから治安が保たれるのです。そんなことを言うと「平和主義者」と呼ばれる人たちから反発されるのですが、室町幕府という中央政府が絶対的権限を行使できなくなったのが戦国時代の始まりです。同じだけの重みの権力を持つ者が複数現れると、その国はどうしても治安が悪くなってしまいます。

そして「絶対的権限の確立」は、すなわち「書類の力で世を動かせる」ということです。秀吉が行ったように、命令書一枚であらゆる物事を決定できる社会。それが「太平の世」の中身です。

だからこそ、石田三成や大谷吉継のような優れた官僚が秀吉政権下で活躍しました。ですが同時に、秀吉の日本経営プランには外征も含まれています。北条討伐後に行われた「唐入り」です。それがあるから、加藤清正や福島正則のような武断派家臣も引き続き重用されました。結局、それが軋轢を生み関ヶ原へとつながるのです。

「平和は尊い」というのは確かにその通りなのですが、日本に限らずどこの国でも「戦乱から太平へ」と移行するのにこうした大事業が行われます。そしてその大事業の中で、数々の有力者の陰謀が渦巻くのもまた人間の特徴です。

「平和を維持するためには、人脂のべたつくような手練手管がいる」とは作家の司馬遼太郎の言葉ですが、まさにそれが実施されたのが「秀吉以降の日本」だったのです。

【秀吉の掌で】シリーズ

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