豊臣秀吉の太閤検地がもたらした改革は、度量の統一だけではありません。
江戸時代、武士の俸禄は「米の石高」でした。1石とは約180リットルで、たとえば「100石取りの直参旗本」というのは年間1万8,000リットルの量の米をもらっているということです。時代劇ウォッチングには必須の知識ですね。
ところが、秀吉以前の日本は石高制ではなく貫高制でした。つまりその米がいくらのお金になるのかという計算です。ですが江戸時代以前の日本は、鐚銭というものが多数出回っていました。早い話が家内制手工業の贋金です。
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貫高制から石高制へ
ただこの時代の日本は通貨の総量そのものが少なかったため、鐚銭でもお金として使用することができました。もちろん、レートは本物のお金よりもだいぶ劣ります。問題は、銭一貫文の束の中に鐚銭が混ぜられたらその場では暴きようがないという点です。こうなると、本物の銭(当時は大陸から持ってきた永楽通宝を使っていました)の信用度合いにも悪影響が出てきます。
いずれにせよ、この状況下での貫高は信じられる数字ではありません。また、貫高表記では肝心の米の生産量が分からないという欠点もあります。
秀吉はそれを一気に解決してしまったのです。貫高制から石高制への意向は秀吉一代で行われたことではありませんが、少なくとも太閤検地という基礎データがなければ達成できないことでもあります。
「情熱」VS「算数」
ところで、改めて秀吉の内政の話をしてみると、どうしても算数の話になってしまいます。
ただ、乱世から太平にかけての時代には「算数のできる人材」がどうしても不足がちです。なぜなら、人間の心は算数で割り切れないからです。
これは現代でも当てはまります。たとえば、ある商社のビジネスマンが情熱のすべてをひとつのプロジェクトに注いだとします。それこそ、命がけです。毎日徹夜で働き通し、新品の靴が1ヶ月で擦り減るくらいのハードワークを何年もこなした上でようやく実現したプロジェクト。ところがある日、経理から「採算が合わない」という理由で中止させられてしまいます。
この時、プロジェクトの実行者だったビジネスマンは何を思うのでしょうか? 「それはもっともだ」と言って素直にプロジェクトを畳むでしょうか?
そしてこのプロジェクトが、素人目に見ても不採算だった場合はなおさら話がこじれます。「情熱」と「算数」の間に摩擦が発生するからです。
武力に頼らない男
度量の話にしても、現地の人々は先祖代々その升の大きさでやって来ました。それを「明日から使うな」と言われたら、みんな大反対するに決まってます。
では、どうするか? これについてはいろいろな意見があると思いますが、澤田はやはり「現地の人にそろばんを見せる」ことが一番いいと思います。すなわち、一緒に計算をしてみて「ほら、これをこうしたほうが合理的でしょ? あなたたちだって、こんなに得をするんですよ」と具体的な数字を出す。そうして説得するしかないでしょう。
それができなかったのが、佐々成政です。「さらさら越え」で有名な人物ですが、最期は太閤検地失敗の責任を取り切腹しています。「算数で人々を納得させる」ということができず、一揆を誘発してしまったのです。
それを念頭に置くと、三成のずば抜けた優秀さが理解できます。彼もまったく同じことをやってますが、特に大きな反発もなく乗り切っているからです。
三成は今まで「実は戦が下手」「実戦経験があまりなく、しかも指揮を執った忍城の戦いで大失態をやらかしてる」という評判がつきまとっていましたが、彼には「戦争に発展させない能力」があったことを前提にしなければいけません。戦国の荒ぶる心を誰しもが持っていた時代、「血を流さず解決する」というスキルを持っていた三成はまさに「新人類」だったと言えるでしょう。
「合算脳」の欠点
そんな三成ですが、最後は徳川家康の前に敗れました。
三成は「合算」の男です。すべてをトータルスコアで考えるタイプですから、逆に言えばひとつの大きなマイナスを即座にリカバリーできる能力がありません。
このあたり、昭和の軍人に似ています。太平洋戦争の時の旧日本軍は、常に合算で動いていました。各方面の兵力の帳尻を書類上合わせるのは、非常に得意です。また、細かいマイナス要因を「とりあえず」的な方法でうまくカバーすることにも長けています。
現にこの頃の旧日本軍(特に陸軍)で活躍した高級軍人というのは、せいぜい少将クラスの「師団長」か「提督」です。それらを統括する軍令部のトップは、正直影の薄い人たちばかり。ちなみに連合艦隊司令長官の山本五十六は、あくまでも軍令部の下で働く「現場の人」に過ぎません。
権限のある人ほど、実は弱い。いかにも日本的ですね。これが特に波風のない時代だったら問題ありませんが、有事の時は非合理的です。権限が誰にあるのか分からず、そのせいで連携が失われます。
実際に関ヶ原でも、西軍の総大将は毛利輝元でした。その輝元が「総大将」の権限で三成に無断で家康に降伏してしまったため、この合戦は誰もが予想していなかった早期決着という結末になりました。
このあたりが、当時の日本でもっとも頭脳明晰だった三成の欠点だったと言えるでしょう。
【再評価・石田三成】