【国際人・徳川家康】駿府城から世界へ(前編) 

初めまして。私はフリーライターの澤田真一(さわだ まさかず)と言います。

私の身分は、言わば「何でも物書き」です。本当はASEAN諸国のビジネス情報が専門分野ですが、実際はスポーツや雑学、グルメ情報などもいろんなメディアで手がけています。

というわけで今回は「国際人としての徳川家康」というテーマの記事を、全3編に渡り皆様にお伝えします。

徳川家康への「マイナス評価」

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「江戸時代、日本は鎖国をしていた」。

日本史に対するこうしたイメージが、今も日本人の意識にはあります。

江戸時代、すなわち徳川幕府2世紀半の間の区分は、今でこそ再評価されているもののかつては「日本史上最も進歩を嫌った時代」「閉鎖的な政権が日本を支配した時代」と言われ続けてきました。そしてそんな「閉鎖的な時代」を作った張本人は、徳川家康であるというマイナス評価も長年に渡り根強く残りました。

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ですが、それは「誤解」と言わざるを得ません。

徳川家康という人物を観察すればするほど、彼が開明的な国際人だったということが見えてきます。

家康は「海賊」だった

戦国時代は、言い換えれば「海賊が山賊を駆逐した時代」です。

この時期、世界は大航海時代を迎えていました。ポルトガルが喜望峰とインド航路を発見すると、洋の東西は直接的なパイプでつながるようになりました。

交易の活性化は、ここから始まります。西洋にあって東洋にないもの、逆に東洋にあって西洋にないものを売買することにより、各国の貨幣経済が急速に発展していきました。

海賊は、海の向こうの国の市場でどのようなものが取引されているか、またそこで売られているものの値段がいくらかを知っています。ですが山賊は、せいぜい隣の山の畑で何が作られているかを知っている程度。つまり、海賊と山賊とでは持っている情報量が格段に違うのです。

その「海賊の力」に目をつけたのが、織田信長です。そして徳川家康は、信長の「弟」であり「子分」でした。

そんな家康が、閉鎖的な対外政策を施すはずがありません。

駿府城外交

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静岡県静岡市にある駿府城。ここは日本とオランダの交流が始まった地としても知られています。

実はここは、筆者の地元。自宅から自転車で気軽に行ける場所です。筆者がいつもウェイトトレーニングをしている体育館も、この付近にあります。まあ、それはさておき。

駿府城は、晩年の家康が拠点にしていた場所です。外交に関する執務も、ここで行っていました。

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1609年、家康はオランダとの貿易を認める朱印状を発行します。両国の友好関係はこの時から始まるのですが、実はその後も家康は他の西洋諸国との通商条約締結を目論んでいた節があります。

オランダとの交流が始まった翌年、家康はヌエバ・エスパーニャに京都の商人田中勝介を派遣しています。ヌエバ・エスパーニャとは、今のメキシコを中心としたスペイン領地域。つまり家康は、スペインとの交流も望んでいました。

結局は宗教政策の温度差が壁となり完全合意には至らず、6年後の家康の死で通商は夢に終わりました。ですが少なくとも、家康は「鎖国」を理想とする「閉鎖的な時代の創造者」でなかったのは確かなようです。

漂流してきた男

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さて、徳川家康には有名な外交顧問がいました。それはイギリス人のウィリアム・アダムス。「三浦按針」という日本名がありますが、ここではアダムスに表記を統一します。

アダムスは来日する前はイギリス海軍に所属していました。1588年のアルマダ海戦にも参加し、スペインと戦っています。

実はこのアダムス、来日当時の姿は散々なものだったと言われています。

もともとはオランダのロッテルダム港から西回りでアジアを目指し旅立ったのですが、当時の西回り航路は危険極まりないものでした。南米大陸最南端という寒冷地帯を経たら、あとはほとんど陸地のない南太平洋を進まなければなりません。しかも南米はスペイン領ですから、オランダ籍の船は拿捕されてしまいます。

そのため5隻あった船団は、日本に着く頃にはたった1隻になってしまいました。つまりアダムスの来日は決して格好のいいものではなく、命からがらの「漂流」と言うべき有様だったということ。

問題は、そのような得体の知れない外国人を家康は自らの側近にしたという事実です。

中編:【国際人・徳川家康】大御所の千里眼
後編:【国際人・徳川家康】忘れ去られた功績