戦国奇人列伝の第3回目は誰を紹介するか。これは非常に悩みました。
1回目は「武勇に優れたバカ殿」六角義治、2回目は「突出した戦略眼の弱小大名」山名豊国を題材にしました。となると3回目は、やっぱりあの人物しかいないのかなぁ……と澤田は考えました。
山口の大名、大内義隆です。
彼ほど「日本人」を表している人物は、他にそうそういないと私は思います。そして義隆は日本文化にとって大きく貢献している人物で、その方面では織田信長よりも歴史に深く食い込んでいます。
ですが同時に、「日本人の弱点」というものを露呈させてしまい、それが致命傷になりました。そういう意味でも、大内義隆という人物は研究のしがいがあると思われます。
目次
中国地方の両頭
16世紀前半の中国地方には、二大勢力が君臨していました。ひとつは尼子氏、もうひとつは大内氏です。この時代の山陽と山陰は、「尼子VS大内」の戦いの舞台になっていました。
「あれ? 中国地方といえば毛利じゃないの?」
はい、確かにそうです。ですが毛利が大勢力に成長するのは16世紀後半からで、それ以前は尼子か大内のどちらかに人質を出さなければ存続できないような弱小勢力でした。現に毛利元就も最初のうちは尼子に、その後は大内に従属しています。
で、ちょうどその頃の大内の当主が義隆というわけです。しかも彼の治世で、山口は日本一の都になりました。
これは大袈裟な表現ではありません。日本の中心といえば京都ですが、この頃の京都は戦乱でズタボロでした。今現在の京都にある寺社仏閣も徳川の時代になってから再建されたものが多いのですが、逆に言えば16世紀日本は都の修繕なんてできる状態ではなかったということです。
フランシスコ・ザビエルは京都と山口の両方を訪れていますが、京都のあまりの荒廃っぷりに愕然としています。それとは逆に山口は栄える一方で、海外との貿易も広く行っていました。義隆はザビエルにキリスト教布教の許可も与えているほどです。
織豊のプロトタイプ
これには倭寇や博多商人の力がありました。彼らは海上貿易のプロです。そして義隆は、船を使った貿易が儲かるということを知っていました。
「そんなの当たり前じゃないか」と言われそうですが、そんなことはありません。なぜなら日本は鎌倉幕府成立以来「山猿」が頂点に君臨していました。要は山岳地帯での走破力を持った軍団(またはそれらを味方につけた勢力)が日本を制する、ということです。ですがそうした勢力は、海のことはまったく分かりません。
大内氏はそのような「常識」を打ち破り、明国との勘合貿易やその他未知の国(ポルトガルなど)との交流に力を入れました。結果、大陸から貴金属の精製技術や新しい織物などが山口に集まり、しかもそのテクノロジーをクローズすることで大内氏は独占的な利益を手にすることができました。
大内義隆を見れば、織田信長や豊臣秀吉などは彼の模倣でしかありません。それほどの大人物で、これからさらに再評価されるべきではと澤田は考えています。
驚異的な先進性
このように、義隆は天性の金儲けスキルを駆使して日本文化史に強烈なインパクトを残しました。
ところが、同時に彼は「戦争嫌いの日本人」でした。
戦争が嫌いなことは、もちろん悪いことではありません。ただ、時は戦国です。戦わなければ生き残れないという現実があります。あの山名豊国ですら、「強い馬を乗り換える」という形でちゃんと戦ってます。
義隆の場合は、対尼子遠征が失敗し養嗣子の大内晴持が死んでしまうと、戦国大名としてのやる気を失ってしまいます。以後は再びの遠征を計画してもなかなか本隊を繰り出さないというような行為が続き(それは晴持の生前から見られましたが)、ついに戦争を完全に放棄するような態度を見せ始めます。
大内に従っている地方豪族からして見れば、「いざとなったら大内が守ってくれる」から従属しているわけです。それをしてくれなければ、そのまま尼子に滅ぼされるのを待つばかり。だからこそ毛利元就は吉川氏と小早川氏に自身の息子を送り込み、毛利の一部として吸収してしまいました。もちろん、大内から独立するためです。
その危うさにいち早く気付いていたのが、陶晴賢(当時は隆房)です。一昔前まで彼が謀反を起こしたのは「自身の野望が理由」とされ、常に悪役扱いされていました。ですが精査すればするほど、晴賢は大内にとって「忠臣」だったことが分かってきました。つまり彼は「大内」のために「義隆」を殺したのであって、現にそうでもしなければ大内は空中分解を免れない状態に達していました。
豪族は「実力」を求める
澤田は憲法第9条の是非の議論に参加するつもりは、まったくありません。
ですが「戦争を放棄した」という国ですらも、警察があります。ましてや機動隊というものは、軍隊を廃止した戦後の日本人が発明した組織です。どんな内容の憲法であろうと、国内の治安のために実力を繰り出すのは国家の責務。それすら放棄したら、我々は日本から独立するしかありません。そう、毛利元就のように。
ましてや戦国時代は、常に戦争のことを考えなければ文字通り殺されてしまいます。そういう意味で、大内義隆は「和を以て貴しとなす」典型的な日本人でした。敢えて繰り返しますが、毛利を始めとした豪族衆が求めていたのは「和」ではなく「実力」です。それが理解できなかった時点で、大内氏の運命は決まっていました。
義隆は様々な意味合いで、「日本人の鏡」と言える人物だと思います。