「なぜ家康は関ヶ原の合戦で勝つことができたのか?」
戦国研究としては、これほどスタンダードなネタは他にありません。
合戦の勝敗の要因はたったひとつではなく、いくつものターニングポイントがその結果をもたらします。だからこの記事の中で「石田三成が負けた原因はこれだ!」と言い切ることはできないのですが、それでもひとつだけ断言できることがあります。
それは、あの当時の誰もが「関ヶ原の戦いは前哨戦に過ぎない」と考えていたということ。
仮に小早川秀秋が裏切らず、東軍が負けたとしても岐阜城へ退却すればいいわけです。岐阜城は当初西軍の勢力下でしたが、関ヶ原での戦いが始まる前に東軍がわずか1日で陥落させました。
あとは遅参した徳川秀忠の軍勢と合流すれば、仕切り直しができる分の戦力は確保できます。そうなったら、岐阜城と大垣城の間に戦線ができ、同時にこれが東西を分ける境となっていた可能性があります。
要は、合戦自体が膠着してしまうというシナリオです。そして三成は、もしかしたら「此度の合戦は高い確率で膠着する」と考えていたのではないでしょうか。
目次
三成は「西国」しか考えなかった
関ヶ原までの西軍の動きを見ていると、「やっぱり西国重視だよな」という感じが否めません。
徳川秀忠は上田城という、戦略上重要でない拠点の制圧にこだわり関ヶ原に参加できませんでした。これについて家康は激怒していますが、実は西軍はそれと同種のミスを何度もやらかしています。
関西圏の拠点でありながら東軍についた伏見城、丹後田辺城、大津城は西軍に包囲されることになりました。なぜ三成は、これら畿内の拠点にこだわったのでしょうか? はっきり言って、これらの城を陥落させたところで家康を倒すことはできません。
家康は関東から中部地方を経て関西へ軍を進ませているのに、三成はあくまでも「ホームグラウンドでの足固め」に終始しました。特に丹後田辺城などは、万単位の兵力で陥落させるような価値などまったくありません。それなのになぜ、京都の日本海沿いの地域に大事な兵力を割いてしまったのでしょうか。
つまり三成にとって、家康との一戦は「現状を守るための戦争」だったのです。
時間を無駄にする
西軍の軍事力が東軍のそれを上回ってることを証明する。そうすれば、豊臣政権下の五大老の権限から逸脱しつつあった徳川家を再び服従させることができるはずだ。
優秀な頭脳を持つ三成は、豊臣政権を飲み込まんとする家康の野望をかなり早い段階で見抜いていました。ならばその野望を挫いてしまえということで、西軍を編成しました。
結論から言えば、この時点で「西軍は負けていた」と澤田は考えています。
野望を実現させようという者と、その野望を挫こうとする者。どちらがよりアグレッシブかといえば、やはり前者です。
関ヶ原のきっかけになったのは、家康の会津討伐。これは皆さんご存知の通り、上杉景勝と戦う目的の遠征です。その間に三成が挙兵したわけですが、問題は「諸侯の意思統一が優先だ」と三成が考えていた点だと思います。
この時点で東軍についた畿内の勢力に対しては兵を送り、さらに大坂にいた諸侯の親族を人質にしようとします。この時、強引な人質徴収を拒んで自ら命を断ったのが細川ガラシャです。
三成は、壮大な時間ロスをやらかしてしまいました。
そうなるくらいなら、その時動員できる兵力で東海道を東へ進むべきだったのではないでしょうか。
諸侯を味方につけるには?
現代日本人が戦国時代についてよく知らないのは、「この時代は裏切りが当たり前だった」という点です。
昨日の敵は今日の友、その逆も然りというのが当然の世の中。それが戦国です。つまり裏切りは日常茶飯事だったわけで、現に山名豊国の人生は裏切りの連続です。弱小勢力ならあのくらいの寝返りはどこかでやらざるを得ず、そうしないと生き延びることはまず不可能。
だから三成は、東軍の諸大名が嫌でも寝返るような手段に打って出なければなりません。「諸大名の妻を人質に取る」などというセコいやり方ではだめです。もっと攻撃的で、しかも実効的なことをやらないと諸大名は三成についてきません。
家康よりも先に攻勢をかけてしまえば、結果はもっと違っていたのではないでしょうか。
以下、後編へ。
大検証・関ヶ原