3分休憩

【秀吉の掌で】家康の上洛(前編)

こんにちわ、「戦う青色申告者」澤田真一です。

今回は豊臣秀吉の話をします。この人物は言わずもがな、日本史上最も劇的なサクセスストーリーを持つ人物。氏素性のない百姓からのし上がって天下人になったという経歴は、テレビでも幾度となくドラマ化されています。

今回はその秀吉が天下人となる過程で発生した、諸大名との陰謀合戦について書かせていただきます。

目次

「上洛」の意味

大河ドラマ『真田丸』は、日本人に「新しい視点」を提供しているようです。

その視点とは、豊臣秀吉が関白に就任してから北条討伐の間の時代。西暦で言えば1585年から1590年までの間です。考えてみれば従来の戦国時代劇は、この期間をかなり省略していました。「四国と九州を劇的に制圧し、最期の宿敵北条の討伐に向けて秀吉は準備を始める」という感じの描写です。

ですが実は、天下人秀吉を語るのにもっとも重要なのはこの5年間。『真田丸』によって、ようやくこの時期が見直されるようになりました。

当時の日本で最も力ある者になった秀吉は、それでも各地の大名を服従させるという作業をしなくてはなりませんでした。ですから彼は「大坂へ来てわしに会え」と諸大名に通達します。これは平たく言えば、「わしの家臣になれ」ということ。

そして秀吉以外の大名から見れば、この上洛命令は「利益確定」です。

秀吉の家臣になる、それは言い換えれば「秀吉の命令なしに戦争はできない」ということ。だから「もっと領地を」と考えている野心的な大名は、秀吉の上洛令を拒もうとしました。

また、秀吉に次ぐ実力を持つ徳川家康も、当然ですがただ命令を出すだけでは絶対に上洛しません。そもそも家康は、小牧・長久手の戦いで秀吉軍を打ち負かしています。

「何で俺があんな猿の家来にならなければいけないんだ」と考える大名のほうが、圧倒的に多かったわけです。

ですが秀吉は、最終的に全国すべての大名を支配下に収めます。それに従わなかった北条などは武力で滅ぼす形になりましたが、それ以外の大名に対しては非常に巧みな外交戦略で懐柔していきました。

そしてそこには、秀吉と諸大名との駆け引きや陰謀が渦巻いていたのです。

家康は勝っていた

そもそも、なぜ秀吉は自身に勝るとも劣らない実力を持つ徳川家康を家臣にすることができたのでしょう?

それを語るには、1584年の小牧・長久手の戦いから始めなければなりません。この頃の秀吉は、まだ「羽柴秀吉」という名前です。

この戦は、織田信長の次男織田信雄が「打倒秀吉」を掲げたことから始まります。父と長兄が明智光秀に討ち取られ、織田家の後継者は自分しかいないと信雄は考えていました。ところが実際は家臣であるはずだった秀吉の力が上回り、信雄を脅かすようになります。

そこで信雄は家康と手を組み、秀吉に対抗しました。これが小牧・長久手の戦いの発生原因です。

この戦いの経緯をざっと説明すれば、家康の当時の拠点である岡崎城を奇襲しようとした羽柴軍が、逆に徳川軍の奇襲を受けズタボロに敗退します。この時の羽柴軍の総大将は、秀吉の甥の羽柴秀次です。「悲劇の関白」で知られている人物ですね。

この秀次は、実はこの戦で命を落としかけています。命からがら大坂へ逃げ帰ったという有様です。

逆に言えば、徳川家康の野戦での強さは尋常ではありません。真正面から戦えば、秀吉と言えど勝てる可能性は極めて低いと言えるでしょう。

けれど秀吉は「人たらし」の名人です。そしてこの戦、よく考えたら徳川軍の総大将は家康ではなく信雄です。そもそも信雄が「秀吉憎し」と始めた戦なのですから。

ですから秀吉は、信雄を懐柔する方向に舵を切ります。

普通に考えたら、この懐柔策が成功する可能性はまずありません。それはそうです。もう一度書きますが、この戦を始めたのは信雄です。しかも戦況は徳川軍の奮戦のおかげで、信雄有利に動いています。

ですが何と、信雄は秀吉との単独講和に応じてしまうのです。

策略で挽回する

信雄は、一言で言えば「バカ殿」です。これは当時の諸大名はおろか、ポルトガル人宣教師まで認めている事実でした。

彼は自分で始めた戦を、他人の力を借りて有利に進めておきながら、途中でその目的を放棄してしまいました。こうして小牧・長久手の戦いの戦いはあっさり終結したのです。

秀吉から見れば、最大の危機を逃れることができたということです。ここで秀吉は家康懐柔のため、さらなる手を打ちます。

一つ目は、自身の妹である旭を独身だった家康に嫁がせること。これは旭が徳川の人質になるという意味です。家康としては、秀吉から人質を差し出したということでそれを快諾します。何事も、相手の弱みを握っていたほうが有利だからです。

ですが秀吉の本当の狙いは、二つ目の策です。「旭の見舞いに行く」という口実で、今度は母親を人質として徳川に差し出しました。そしてその上で、「大坂に来てくれ」と家康に伝えたのでした。

もし家康が上洛を断って秀吉の母と妹を殺したら、どうなるでしょうか?

秀吉の兵力で家康を討ち取ることは、まず不可能です。ですが家康は秀吉の妹を妻にしている以上、彼らの生みの母親は自身の義理の母ということになります。つまり家康は「親を殺した大悪人」になってしまうのです。そうなると当然、諸大名や家臣の離反を招きます。

また、この時点で秀吉と家康は「同じ家族」ですから、「義理の兄」を見舞いに行くというのはごく自然の行為です。

そうなると、家康は水の流れに沿うように上洛へ向かわなければなりません。

『真田丸』でもあったように、秀吉は家康と公式に対面する前日に実は会っていて、その時に相当頭を下げてお願いしたそうです。ですが非公式の場でいくら秀吉が媚びへつらったといっても、それは政治的に何の意味ももたらしません。公式の場で上下関係を明確にさせることこそが、秀吉の狙いです。

こうして家康は、秀吉の臣下になるという運命をたどりました。

【秀吉の掌で】シリーズ

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魔王のドラ息子 ~ 織田信雄

どうも、「戦う青色申告者」澤田真一です。中京大学が面白い新史料を公開しました。それは織田信長の次男信雄が、豊臣秀吉に宛てた書状。明智光秀軍の残党狩りについて、秀吉に相談する内容です。「そちらの状況を知らせてくれ。それに合わせて我々の陣を動かそう」と書かれています。ちなみに、書状の日付は清洲会議の3日前です。さすがです中京大。なかなかどうしてすごい史料を発掘してきました。今月16、17日のオープンキャンパスで一般公開されるそうなので、興味のある方は必見です。あ、よく考えたらこの日は土日じゃないですか...
新史料から見る「魔王のドラ息子」織田信雄 - 3分休憩
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