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【戦国奇人列伝】常に正しかった弱小大名・山名豊国(第2回)

南近江の大名六角義治は「武勇に優れたバカ殿」でした。誰しもが認める弓の名人で、肉体的にも非常に堅強。ですが戦略眼がまったくなく、奮闘したにもかかわらず大名には復帰できませんでした。

今回はそんな義治とは対照的に、「戦略眼に優れた弱小大名」をご紹介します。この人物は大きな決断を迫られる場面で常に正しい選択をして、戦乱の世を生き抜くことができました。ところが彼には、それ以外の要素は一切持ち合わせていません。武勇も兵力も家臣からの人望もなく、さらには本人の心に「野望」というものがまったくありませんでした。

目次

没落した名門の跡継ぎ

彼の名は、山名豊国。名門守護大名山名氏の家系を相続し、因幡一国を支配していました。ところがこの当時の山名氏は完全に没落していて、家臣にもさんざんっぱらナメられる始末。豊国の兄の豊数が家督を継いだ頃、家老の武田高信が挙兵し国を乗っ取られてしまいます。

豊数はその後屈辱の中で憤死するのですが、豊国はある勢力と手を組み武田高信と戦う道を選びます。

その勢力とは、山中鹿之助率いる尼子再興軍。山陰に土地勘のある鹿之助は、武田高信をあっという間に駆逐してしまいます。この間、豊国は大した槍働きをしていなかったようで、合戦は専ら鹿之助が頑張っています。

ですが、尼子再興軍は言い換えれば「毛利の敵」。勢力が大きくなると、当然毛利が黙ってはいません。豊国と鹿之助が拠点としていた鳥取城に、「毛利の武闘派」吉川元春の軍団が攻め寄せてきます。

その時、豊国はどうしたか?

何と恩人であるはずの鹿之助をあっさりと見限って、毛利に降伏したのでした。

馬を乗り換えまくる

豊国はここからしばらくは毛利の従属領主として、鳥取城で存続します。厳密に言えば、吉川元春と山中鹿之助が激闘を繰り広げる最中にもう一度鹿之助側に戻ったりしてますが、結局は毛利を鳥取城に呼ぶことでひとまず落ち着いています。

しかしそれも長くは続きませんでした。東から織田信長が台頭してきたからです。

山陰に進出した織田軍を率いるのは、羽柴藤吉郎秀吉。お馴染み太閤殿下です。豊国は驚異的な進撃を受け、鳥取城に籠城せざるを得ない状況に追い込まれます。

ここで、豊国と家臣団に温度差が生まれます。家臣団は毛利の力を借りて徹底抗戦を訴えますが、豊国は「織田に降伏しよう」と考えていました。

こう書くと豊国はヘタレに見えますが、これは早い話が「ねじれ国会」みたいなもの。主君と家臣の意見が違うということは、この当時にもしばしばありました。

そしてここからは議論があるのですが、鳥取城を秀吉に包囲された豊国は単身で城から出てしまいました。「議論がある」というのは、これが自発的なものか家臣団に追い出されたかという点です。

ただ、これはあまり重要ではない気がします。というのも、自分で城を出ようが追放されようが、「豊国は織田派だった」という点に変わりはないからです。ちなみに彼の娘のあかね姫は、秀吉の命令で磔台に縛り付けられ槍で刺殺される寸前だった……と史料にはあるのですが、実際はエロ猿と一緒に布団の上にいたようです。その後あかね姫は「南の局」として、エロ猿の側室になっています。

ともかく豊国は、秀吉に降りました。この時点で、彼は戦国大名としての丁半博打に3回も勝ったわけです。1回目は尼子再興軍、2回目は毛利、そして3回目は織田。それぞれの時勢での強者を見極め、下手なプライドを捨てて正しい回答を出し続けた豊国の戦略眼は、少なくとも人並以上だと思います。

大名復帰を嫌がった?

ところが豊国には、欲というものがまったくありませんでした。彼はその後、秀吉から「儂に仕えよ」と声をかけられていますが、それを断り浪人になりました。

秀吉は、恩ある人間のことは絶対に忘れない性格です。たとえば本能寺の変で織田信長が死んだ直後、明智光秀を討つために急遽毛利と講和をまとめました。その時「秀吉と停戦すべきだ」と主君に促した小早川隆景と安国寺恵瓊は、のちに秀吉から厚遇を得ています。

豊国もそうなるべきでしたが、彼自身は諸国を放浪したり別の家の食客になったりと、大名復帰にまったく関心を持ちません。そこからさらに時を置いて豊国は秀吉の御伽衆に加わっていますが、これは秀吉が「あの男を浪人のままにしてはいかん」と無理やり自分の手元に引き入れた……と澤田はぼんやり考えています。

そして豊国は、この後も壮大な丁半博打に臨み見事勝っています。関ヶ原の合戦です。彼は東軍につき、兵を率いて最前線に陣取りました。

生涯4度の大博打にすべて勝ち、戦国時代を生き残った山名豊国。しかし突出した戦略眼を持ちながら、自分の手元に転がり込んできた利益を放棄しました。

この人物が徳川政権下でも一目置かれていたことは事実で、駿府城にもたびたび訪れています。つまり豊国は、家康からも「貴人」として扱われていたわけです。

歴史作家からは「勝ち馬に乗っただけ」だの「城を売った」だのと評価の低い山名豊国ですが、澤田は重要な分岐点で冷静な判断を繰り出すことができた彼の能力を高く評価したいと思います。

 

戦国奇人列伝シリーズ

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