どうも、「戦う青色申告者」こと澤田真一です。
我が地元静岡市で、一大プロジェクトが始まりました。
それは駿府城天守閣跡の発掘作業。これがですね、全国の日本史関係者が大注目するほどのお仕事なんですよ。何しろ駿府城天守台って、江戸城のそれよりもデカイっつーハナシですから。
で、この発掘作業は最終的に天守閣再建につなげるそうです。澤田にとっては夢のようなことで、一刻も早く作業を進めていただければと考えています。
目次
開かれた現場
というわけで、発掘現場にお邪魔してみました。
ここは作業時間内なら誰でも立ち入りOKで、予約とか事前受付とかいうのもありません。「見学してくれ!」と言わんばかりに開かれた現場です。
作業員の方が汗を流していますが、作業着もまた気が利いています。「これはお城の発掘ですよ」と主張しているこのデザイン。いいですねぇ、澤田はこういうの嫌いじゃないですよ。
発掘作業というのは、9割方はスコップとツルハシを使った土木工事です。刷毛で出土品を綺麗にする作業なんてのは、実際にモノが出てからの話。それまではひたすらマッスルパワーな肉体労働です。澤田も静岡市内の別の遺跡を発掘していたことがあり、その時は旧陸軍の37ミリ砲の薬莢を発掘するという功績を上げました。ちなみに掘っていた遺跡は平安時代のものです。
遺跡発掘って、目的のものとは関係ない変なものがポンポン出てくるんですよ。それがまた発掘の面白いところだったりするんですが。
静岡の「黒歴史」
現場脇に設置された仮設の建物には、今まで駿府城公園から出土したものが展示されています。中には鯱の姿も。こういったものが、まだ地中に眠っているかもしれません。
駿府城天守台の詳しいデータは、今の時点でよく分かっていません。天守台自体は明治の中頃までありましたが(←天守閣じゃないですよ、念のため)、事前調査を行わないまま取り壊されてしまったという背景があります。
問題は、これです。なぜこれほど貴重な遺産を破壊してしまったのか、そして破壊するにもなぜ測量を行わなかったのか。それがなされていれば、今現在行われている発掘作業ももっと効率よくできたはずです。
このあたりは、静岡県の黒歴史のようになっています。
明治時代、駿府城は更地化され、そこに旧陸軍の34歩兵連隊が駐屯します。つまり軍用地にするために遺産が取り壊されたのです。ただもちろん、この記事では過去のそうした行為を非難するつもりはありません。ですが先述のように、天守台を壊すなら壊すでなぜ事前調査を行わなかったのでしょうか?
「在りし日の姿」を永久保存しようという発想が、当時はなかったということなのでしょうか?
「師団制」がもたらしたもの
話は大きく飛びます。
ナポレオン・ボナパルトという人がいます。説明不要のフランスの英雄です。この人が生きた18世紀末から19世紀初旬のかけての軍隊は、今現在の軍隊とは大きく異なります。
戦車や戦闘機があるかないか、という話ではありません。「食料は現地で調達する」という点です。
ナポレオンの頃の軍隊は、進軍した先の町や集落から食料を得ていました。これは言い換えれば「略奪」です。ただ、絶頂期のフランス軍は行く先々で農民から熱狂的に歓迎されていたため、黙っていても食料が手に入りました。
現代の軍隊は、絶対にそんなことはしません。自衛隊では「自己完結」と表現されていますが、要は「自分のメシは自分で作る」ということです。だから現地から物を仕入れる時は、正規の価格でお金を出して購入します。まかり間違っても「奪う」ということはありません。
これは自衛官のモラルが高いからという話ではなく、「師団制」の軍隊組織がそうさせているからです。
師団とは軍隊の部隊編成単位のひとつですが、常に独立行動ができるようになっています。そうである以上はライフラインの全てを自分たちの採算能力で確保しなければなりません。電気、水道、ガスなども有事の際は自前で賄います。そして平時の際は、繰り返しますがちゃんとお金を払って民間から物資を仕入れているわけです。
しかし、その要素が駿府城天守台を破壊することになりました。
【駿府城天守台発掘計画】後編へ
ここで、1冊の本を紹介させていただきます。『軍隊を誘致せよ ?陸海軍と都市形成』(松下孝昭著・吉川弘文館)は、近現代史を研究する者ならば絶対に読み落としてはいけない本だと澤田は考えています。この本の内容を一言で言えば、「旧日本軍は地元に巨額の利益を与えていた」ということ。この言葉に反発する人は多いのですが、日本軍に限らず師団制を採用した各国軍隊は駐屯した先々でインフラ整備を行っています。その土地に常備軍として駐屯しなければならない、すなわち部隊を編成した状態でいつまでも暮らさなければならないわけ... 【駿府城天守台発掘計画】天守閣と都市活性化(後編) - 3分休憩 |
【国際人・徳川家康】
初めまして。私はフリーライターの澤田真一(さわだ まさかず)と言います。私の身分は、言わば「何でも物書き」です。本当はASEAN諸国のビジネス情報が専門分野ですが、実際はスポーツや雑学、グルメ情報などもいろんなメディアで手がけています。というわけで今回は「国際人としての徳川家康」というテーマの記事を、全3編に渡り皆様にお伝えします。徳川家康への「マイナス評価」「江戸時代、日本は鎖国をしていた」。日本史に対するこうしたイメージが、今も日本人の意識にはあります。江戸時代、すなわち徳川幕府2世紀半の間の区... 【国際人・徳川家康】駿府城から世界へ(前編) - 3分休憩 |
【国際人・徳川家康】の中編。前編を見ていない方はぜひこちらから。徳川家康とウィリアム・アダムス(三浦按針)との出会いは、日本史にとって大きなインパクトでした。これは中世から近世へ移行するためには欠かせないプロセスであったと同時に、江戸幕府の創設者が決して外交に不寛容ではなかったという最大の証明です。これをきっかけに、日本は室町時代以前の「山賊集団国家」から脱却していきます。家康の「賭け」外国人を外交顧問にする。これは非常に大きな賭けです。これが通訳や指導技術者としての採用だというなら、一切問... 【国際人・徳川家康】大御所の千里眼(中編) - 3分休憩 |
【国際人・徳川家康】の後編へ!前編・中編を見てないかたらこちら。前編:【国際人・徳川家康】駿府城から世界へ中編:【国際人・徳川家康】大御所の千里眼交易の門戸を全世界に向け、その後の日本の文化発展を促した徳川家康。ですがその功績は、家康の死後数十年で忘れ去られてしまいます。日本にとっての「近世への道」を舗装し、鎖国どころか日本の国際化を促そうとしたのは間違いなく家康の功績です。それだけ大きな歴史的事実が、のちの幕閣の間で共有されなかったというのは実に不思議な現象です。なぜでしょうか?合議制の落... 【国際人・徳川家康】忘れ去られた功績(後編) - 3分休憩 |