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小早川秀秋は「病人」だった!? 関ヶ原の「遅れた決断」に新説現る

こんにちわ、「戦う青色申告者」澤田真一です。

いや?、戦国関連のニュースが尽きませんね。織田信雄や島左近の新史料発表が相次いでますし、今までになかった新説を唱える人も現れました。しかもそれらはすべて、澤田がインドネシアに行ってる間の出来事です。一時期はインドネシア移住を本気で考えていた澤田ですが、やっぱり日本にいたほうがいいのかなぁ……。

アレですよ、何と言っても「小早川秀秋が関ヶ原でなかなか寝返らなかった理由」の新説が衝撃です。今まで「秀秋は優柔不断だった」とか「西軍を裏切る気はなかったけれど家康に脅された」とか言われてましたが、ここに来て「体調不良説」が出てきました。

早速、この新説を検証してみましょう。

目次

肝硬変を患っていた!?

小早川秀秋はご存知の通り、西軍から東軍に寝返り関ヶ原の勝敗を覆した人物です。

ただ、それに至るまでの経緯で一悶着あり、あまりの優柔不断さにしびれを切らした徳川家康が秀秋の陣に鉄砲を撃ったという話は有名です。ですが兵庫県姫路市のとある脳神経外科医が発表した説によると、当時の秀秋は肝硬変を患っていて肝性脳症を併発していたというのです。

数え21歳でこの世を去った秀秋は、確かにアルコール依存症(とそれに伴う内臓疾患)で死んだというのが定説です。関ヶ原は彼の死の2年前ですから、その頃から何かしらの疾患があったとしても不思議ではありません。

また、酒が原因の疾患すなわち「酒毒」で死んだ戦国武将は、決して珍しくありません。その代表例が、毛利元就の家族です。元就は父と祖父、そして兄をことごとく酒毒で亡くしています。これは内臓疾患を起こしやすい家系だったと考えられますが、元就はそれをはっきりと自覚していました。酒はほどほどに、決して飲み過ぎてはいけないということを元就は実践しています。

こうした「日頃の節制」は、戦国大名にとってのちのち大きなアドバンテージになります。殿様が病弱であってもいいのは太平の世で、明日誰が滅亡しているか分からない戦乱の世では「殿様は健康」であることが絶対条件です。

自らの不摂生で健康を損ねた殿様は、それが原因で家全体を動揺させてしまいます。

指揮官が病気になったら

当時の戦争は、部隊指揮官の存在と手腕がモノを言います。

それは今も同じだろうと突っ込まれそうですが、実は近代戦争において部隊指揮官が戦争戦略にインパクトを与えることはほとんどありません。なぜなら、今の軍隊には「参謀本部」というものがあるからです。

立案された作戦は、必ず参謀本部が管理します。部隊指揮官は参謀本部の指示に沿って動かなければならないため、たとえば「先駆け」などはもってのほかです。また、もし指揮官が体調不良でダウンしたとしても、副官を後任にすれば部隊運営に支障は発生しません。

逆に言えば、参謀本部というものができる以前の軍隊は指揮官が倒れたらそれでオシマイでした。「ナポレオン最後の戦争」で名高いワーテルロー会戦では、途中でナポレオンが体調を崩して小休止するという場面があります。結果的にそれが決断の遅れを誘発してしまい、フランスは敗退しました。

つまり「指揮官の体調不良で部隊が動かなくなる」というのは、近世以前ならば充分にあり得る話なのです。

割と妥当な「体調不良説」

「秀秋体調不良説」は、ナポレオンの例を見ても決して珍説ではないというのが分かりました。

澤田はむしろ、この辺が妥当な説だと感じています。もちろん断言できることではないのですが、いずれにせよ秀秋の肉体がこの時から万全ではなかったと考えるのが自然ではないでしょうか。

秀秋が少年の頃から酒を飲んでいたことについては、異論がありません。

ただ、「それじゃあ秀秋が健康体なら決断はもっと早かったのか」と聞かれると、ちょっと即答しかねます。矛盾するようですが、西軍が優勢だった時に秀秋の陣と対峙する大谷吉継を乗り越えられるかというと、それはキツいなぁ……と思っちゃいます。

現に吉継は、寝返ったあとの秀秋の軍勢を一度は押し戻しています。秀秋が早い段階で家康の呼びかけに応じていたとしても、結局は戦線が膠着するだけじゃないかと澤田は考えています。

ですから、「秀秋は戦況を見て寝返りを判断した」という見方も捨て切れないわけです。

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