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【大検証・関ヶ原】こうすれば西軍は勝てた!(後編)

徳川家康には戦略がありました。そして、その戦略を諸大名に伝える能力も備わっていました。

要はプレゼンです。この時、豊臣政権下で行われていた五大老による政治運営システムに、一体どのような欠点があるのか。そして石田三成の掲げる政治の在り方ではなぜダメなのか。さらに、家康自身に全国六十余州をまとめ上げるだけの力と運営構想があるのか。そうしたことを、前々から諸大名に伝えていたのだと思います。

一方で、三成にはそうした戦略がまったくありません。「豊臣秀頼が成長するまで合議制で政治を運営する」なんていうのは応急処置みたいなもので、戦略とはとても言えません。

結局、それが大きなアドバンテージとなりました。

目次

下拵えの違い

日本人は「空気」を読むくせに、「おおまかな傾向」を算出するのが苦手な民族です。

「やっぱりアメリカ人は銃を手放せない」

日本でそう言うと、必ずこう返されます。

「そんなことはない。アメリカにだって、銃規制に賛成する人たちがたくさんいる」

これはつまり「アメリカ人を一括りにするな」という意味合いの反論ですが、実はこの言葉は「反論」にすらなっていません。

「銃規制に賛成する人たちがたくさんいる」と口では言いながら、その銃規制賛成派は結局少数派だということを認めてしまっているからです。もしそうでなければ、現実問題としてアメリカで銃規制が促進されています。その現象が客観的事実として出ていなければ、「やっぱりアメリカ人は銃を手放せない」という結論になります。

「おおまかな傾向」を議論の中で語る人は、その先についても解説することができます。ですがそれをただ否定したい人は、代替案というものを出すことができません。

諸大名が何を求めているのか。それについての「おおまかな傾向」を導き出したのが家康です。ただこれだけで、彼は多数派を形成することができます。あとは少数派を潰しにかかるのみです。

逆に言えば、三成にはそうした発想がありません。彼は畿内及び西国の「空気」を読みます。「江戸を攻撃する」とか「家康の首を取る」とか言ってるくせに、結局は畿内のことしか頭にないわけです。すると必然的に、三成は少数派に転落します。

これらはひとことで言えば、「下準備の差」ということになります。

目指すは掛川城!

だからこそ、三成は家康以上に電撃的に行動する必要があったはずです。

単刀直入に言えば、三成は一刻も早く東進するべきだったと澤田は考えています。

幸い、西軍は岐阜城を勢力下に入れています。ここから東海道方面へ兵を進め、せめて掛川城まで制圧できれば戦況は好転していたでしょう。この時掛川城の主だった山内一豊は、会津征伐に出かけています。遠江を手に入れるチャンスです。

それさえ成功すれば、あとは西軍総大将の毛利輝元を大坂城から岐阜城に移動させることで強固な戦線ができます。何度も言いますが、畿内の情勢ばかりにこだわる必要などありません。

ただ、ここでひとつ問題が発生します。それは北陸の大領主・前田家の存在です。

史実では東軍に取られた前田に対抗するため、大谷吉継がその他の北陸勢を西軍に引きずり込んでいます。このおかげで前田の動きをだいぶ抑制することができたのですが、それでも前田を西軍に加えられなかったことはかなり大きなダメージとなってしまいました。

このあたりでも、やはり「下準備の差」が見えてきます。前田利長を謀略にかけ、何が何でも東軍に服従せざるを得ない状況を作った家康と、事後の対症療法に終始した三成。これも前田の重要性をマクロな視点で認識していたか否かの違いではないでしょうか。

「官僚」の限界

西軍が掛川城を制圧し、直後に岐阜城へ毛利輝元が入城する。こうして築いた戦線が何をもたらすかといえば、おそらく合戦そのものの膠着だと思います。

大局的なものの見方に欠けた三成の実力では、家康を完全に追い込むのはほぼ不可能と言ってもいいでしょう。要するに三成は「官僚」で、絶対的権力者が発した指令を隅々に浸透させるのは上手ですが、自分自身が命令系統の頂点に立って物事を考えるスキルは持ってません。

それでもさらに西軍勝利の可能性を考えるなら、先述の戦線を構築したのちにどうにか家康と講和し、なおかつその直後に家康が自然死するという展開です。そうなったら徳川の後継者は、凡才の秀忠です。しかも秀忠の妻は浅井三姉妹の三女・江。豊臣家との血縁関係がより明確になります。

掛川は山内一豊に返してやっても構いません。家康がこの世の人でなくなった以上、一豊が再び徳川のために奮戦するという可能性はぐっと低くなります。

ただし、繰り返しますがこのシナリオは家康がすぐに死んだ場合のみ実現の可能性が出てくるものです。史実通り長生きしたら、家康ならばさらなる謀略と政治工作を繰り出して三成と豊臣家を潰しにかかるでしょう。

となると、やはり三成は不利な状況下で対症療法に徹するしかないと思われます。

大検証・関ヶ原

前編:

「なぜ家康は関ヶ原の合戦で勝つことができたのか?」戦国研究としては、これほどスタンダードなネタは他にありません。合戦の勝敗の要因はたったひとつではなく、いくつものターニングポイントがその結果をもたらします。だからこの記事の中で「石田三成が負けた原因はこれだ!」と言い切ることはできないのですが、それでもひとつだけ断言できることがあります。それは、あの当時の誰もが「関ヶ原の戦いは前哨戦に過ぎない」と考えていたということ。仮に小早川秀秋が裏切らず、東軍が負けたとしても岐阜城へ退却すればいいわけです...
【大検証・関ヶ原】時間を活用できなかった三成(前編) - 3分休憩

 

【国際人・徳川家康】駿府城から世界へ

初めまして。私はフリーライターの澤田真一(さわだ まさかず)と言います。私の身分は、言わば「何でも物書き」です。本当はASEAN諸国のビジネス情報が専門分野ですが、実際はスポーツや雑学、グルメ情報などもいろんなメディアで手がけています。というわけで今回は「国際人としての徳川家康」というテーマの記事を、全3編に渡り皆様にお伝えします。徳川家康への「マイナス評価」「江戸時代、日本は鎖国をしていた」。日本史に対するこうしたイメージが、今も日本人の意識にはあります。江戸時代、すなわち徳川幕府2世紀半の間の区...
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