【秀次切腹の怪】すべては「泥縄式」だった?(前編)

こんにちわ、「戦う青色申告者」澤田真一です。

大河ドラマ『真田丸』、盛り上がってきましたねぇ。豊臣秀次切腹の回は、衝撃の一言でした。

豊臣秀吉という歴史人物の一生を語る上で、「秀次切腹事件」は欠かせません。秀吉から関白の座を受け継いだ豊臣秀次が、謀反の嫌疑をかけられ死に追いやられたという出来事です。もっとも謀反の嫌疑はデッチアゲで、本当は淀君との間に拾丸(豊臣秀頼)を生んだ秀吉が、用済みになった秀次を抹殺した……というのが事件に対する一般的な解釈です。

秀次は晩年の耄碌した秀吉に殺された「悲劇の人」として、後世の人々に認識されています。歴代大河ドラマでも、このエピソードは幾度となく取り扱われていますね。

ところが、先日放送された『真田丸』では、まったく異なる解釈がストーリー化されていました。

秀次は死ななくても済んだ!?

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小日向文世さんが演じる『真田丸』の秀吉は、最初から最後まで秀次を殺す気はありませんでした。

ところが秀次は関白としての責任感がストレスとなり、さらに拾丸誕生がそれにダメ押しをかけついに失踪してしまいます。最終的には高野山に自ら入り、そこで切腹して果てます。これは正真正銘の「自殺」です。

秀吉にとってはこの出来事は青天の霹靂で、大いに慌てます。ですが「秀次が自ら腹を切った」ということを公表するわけにも行かず、仕方なく「秀次は謀反を企てた」ということにしてしまいます。となると、秀次の妻子は連座で死刑にするしかありません。

つまり、すべては泥縄式に行われていたというシナリオです。いくら何でも、そんなことがあるのでしょうか?

可能性は充分にある、というのが澤田の見解です。

この「秀次自発切腹説」を最初に唱えたのは国学院大学の矢部健太郎教授で、本も出版されています。詳しくは『関白秀次の切腹』(KADOKAWA)を読んでいただくのが早いのですが、この記事では澤田自身の解釈から秀次切腹事件を考察していきたいと思います。

貴重な「中継ぎ」

まず、この時代は織田信長も言っていた通り「人生五十年」です。50歳以上生きれば往生と呼ばれ、それこそ真田信之のように数え93歳まで寿命を保てば「生き神様」と呼ばれます。

それに人類は、つい最近まで多産多死の環境で生きてきました。10人きょうだいのうち20歳まで生きたのは2人か3人だけ、というのも珍しくありません。きょうだい全員が成人できるような社会になったのは、抗生物質というものが発明されて大抵の病気を治療できるようになってからです。

たまに「抗生物質は身体に悪い。漢方があれば何でも治せる」と言い張る人がいますが、それじゃあ漢方しかなかった時代に人類は感染症を駆逐していたのでしょうか。ペストも結核も梅毒もハンセン病も、抗生物質があるからこそ「治せる病気」になりました。「ナチュラルな環境にいれば健康的に過ごせる」というのは、カルト的な幻想に過ぎません。

話は逸れましたが、16世紀は「子供の早逝」というのが身近にありました。豊臣秀吉も例外ではありません。秀吉は庶子を含めて生涯3人の子を誕生させていますが、そのうちの2人は幼子のままこの世を去っています。

ですからのちに豊臣秀頼と呼ばれることになる拾丸も、生後間もない当時は「果たして元服するまで生きてくれるのか」という周囲の不安があったはずです。

そんな中で「中継ぎ投手」の秀次を殺すのか、という疑問が浮かび上がります。

至極自然な歳の差なのに……

次に、秀吉・秀次・秀頼の生年を見てみましょう。ここでは西暦で表記します。そのほうが分かりやすいからです。

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仮に大坂夏の陣が起こった1615年に秀次が生きていたら、彼は満年齢47歳。ちなみに秀頼は21歳です。

この歳の差が肝心です。 満47歳が満21歳に家督を譲って隠居する、というのはごく自然のこと。秀吉もそれを想定していたはずです。つまり秀次は、少なくとも17世紀初頭まで関白の仕事を務めなければならなかったのです。

「秀吉の男子が生まれたから秀次は用済み」という理屈には、だいぶ無理があるということが分かります。

そもそも、秀次が腹を切ったら豊臣家に何かいいことがあるかというと、何もありません。関白の座が空位になるだけです。もし秀次が生きていれば、豊臣家は秀吉の血筋の中で関白を継承し続けることができたはず。

すると、あの徳川家康でさえも容易に豊臣潰しにかかれないということになります。

以下、後編。