新史料から見る「魔王のドラ息子」織田信雄

どうも、「戦う青色申告者」澤田真一です。

中京大学が面白い新史料を公開しました。それは織田信長の次男信雄が、豊臣秀吉に宛てた書状。明智光秀軍の残党狩りについて、秀吉に相談する内容です。「そちらの状況を知らせてくれ。それに合わせて我々の陣を動かそう」と書かれています。ちなみに、書状の日付は清洲会議の3日前です。

さすがです中京大。なかなかどうしてすごい史料を発掘してきました。今月16、17日のオープンキャンパスで一般公開されるそうなので、興味のある方は必見です。あ、よく考えたらこの日は土日じゃないですか。

日本には、まだまだこうした「知られざる歴史」が眠っているはずです。

家臣にお伺いを立ててどうするんだ!?

それにしてもこの書状、どうやら急ピッチで書いたらしく、何でも墨が乾く前に折り畳んだ跡があるということです。

「岐阜城近くに陣を置こうと思ったが適当な場所がなく、それよりも北方に布陣した。そちらの状況に応じて陣の場所を決めてほしい。連絡をよこしてくれ」

正直、こんな内容の書状を送ってしまう信雄はやっぱりバカ殿だと思います。

まず、この時点で秀吉は信雄の臣下に過ぎません。つまり本来は、信雄が秀吉に命令を出さなければいけないわけです。ここは「秀吉よ、わしの言う通りに陣を置け」と書くべきでした。

そりゃナメられるはずですよ、ええ。

そもそも、信雄は「バカ殿」として当時から有名でした。ルイス・フロイスは「安土城を放火したのは信雄」と言っています。それが本当かどうかはこの際重要ではありません。問題は「あいつだったらそんなこともするだろう」と、外国人に思われていたということ。

お前はあの時何してた?

主君である信長とその嫡男信忠を討ち取った明智光秀は、その後山崎の合戦で秀吉に敗退しています。

信雄は本能寺の変の時は伊勢にいて、光秀討伐のための兵を挙げています。ところが、進軍途中でどういうわけか引き返しています。この動機についてはいろいろな議論がありますが、ともかく意味不明な行動です。

信雄は何が何でも明智軍と戦うべきでした。そうでないと次期当主としての示しがつきません。極端な話、合戦そのものには負けてしまってもいいのです。信長なんて生涯のうちで何度も負けていますから、その後のリカバリーさえできれば局地戦での敗北など大した問題ではありません。

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ちなみに信雄の弟の信孝は、秀吉とともに山崎の合戦を戦いました。こうなると「信雄様より信孝様のほうが次期当主に適任では」という声が家臣から出てくるのは当然で、実際に清洲会議では家中の意見が真っ二つに分裂してしまいました。

信忠は死ぬ必要はなかった

つまり信雄は織田家次期当主としての「責任」を放棄したくせに、いつまでもポスト信長の座に執着していた「愚か者」ということになります。

ただ、そうした視点で見ると信雄に勝るとも劣らない「バカ殿」の存在に気づきます。それは光秀に討たれた信長嫡男の信忠です。

信忠は当初、妙覚寺にいました。それが光秀謀反の一報を知り、二条御所へ場所を移しています。彼はそこで最期を迎えるのですが、どうして京を脱出しなかったのか謎と言わざるを得ません。

妙覚寺を脱出できたのなら、そのまま安土城へ向かうべきです。同時に信雄と信孝に早馬を出し、大至急軍を集結させて光秀を包囲せよと命令を出します。こうなったら光秀は絶対不利、というよりも絶望的。上手く行けば、秀吉の力を借りなくても光秀を打ち取ることもできたでしょう。

それをやらなかったのは重大な責任放棄であり、「立派な最期」を優先した信忠の大失敗です。信忠は「優秀な嫡男」と評判でしたが、以上の点だけで彼の偏差値が大きく下がってしまいます。

こうして見ると、「信長って偉大すぎる親父だったんだなぁ」と思っちゃいますよ、ええ。