【国際人・徳川家康】忘れ去られた功績(後編)

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前編:【国際人・徳川家康】駿府城から世界へ
中編:【国際人・徳川家康】大御所の千里眼

交易の門戸を全世界に向け、その後の日本の文化発展を促した徳川家康。ですがその功績は、家康の死後数十年で忘れ去られてしまいます。

日本にとっての「近世への道」を舗装し、鎖国どころか日本の国際化を促そうとしたのは間違いなく家康の功績です。それだけ大きな歴史的事実が、のちの幕閣の間で共有されなかったというのは実に不思議な現象です。

なぜでしょうか?

合議制の落とし穴

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その理由は、複数あるようです。まず家康亡き後の幕閣が「安定路線」に入ったこと。そもそも江戸幕府の将軍は、数人の老中に支えられた上で公務を行っていました。単刀直入に言えば、江戸期の日本政治は老中たちの合議により判断の決定がなされていました。

これは今もそうですが、日本人は何でも話し合いで物事を決めようとします。一見いいことのように思えますが、合議制は「意思決定が遅い」「責任の所在が明確でない」という欠点があります。

そうなると、結局は政治も「開拓」から「現状維持」へと舵を切るようになります。この場合は「西洋からはオランダ船しか来ない」ということが、いつの間にか「オランダ以外の西洋国家とは交易しない」という解釈になってしまいました。

18世紀を迎えるまで、実際にオランダしか日本と交易できるだけの余力を持っていなかったということも、それに拍車をかけたようです。イギリスは清教徒革命により王政が廃止され、スペインは三十年戦争の敗北で国力と権威を失っています。

ですがその状況は、18世紀以降覆されます。

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幕末の駿府

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家康存命時は、日本の貿易政策の命令発信地として機能した駿府。

ところが幕末の動乱期には、駿府という地名が出てくることはあまりなくなりました。山岡鉄舟と西郷隆盛の会談が駿府で行われたことがありましたが、それ以外に大きな出来事は発生していません。

もし江戸幕府が「家康の記憶」を引き継いでいたら、すなわちウィリアム・アダムスという人物がかつて存在し、彼を通じてイギリスと交流があったという歴史的事実を江戸幕府が覚えていたら、駿府は幕末期もその存在を発揮していた可能性があります。ところが実際には、勝海舟のような幕府内の開国派ですらアダムスを知らなかったようです。

そしてこれが、徳川家康に対する「閉鎖的な幕府創設者」という汚名の発端にもなります。

家康は「国際人」だった

長らく忘れられてきた家康の「駿府城外交」は、我々現代人に二つの教訓をもたらしてくれます。

一つは、「歴史的事実の忘却」がいかに恐ろしいかということ。繰り返しますが、家康の頃の幕府外交についてもっと知られてさえいれば、駿府は浦賀や横浜に並ぶ「幕末外交の中心都市」として名を連ねていたかもしれません。

そしてもう一つの教訓は、「再評価の重要性」です。実は今、あらゆる有名歴史人物の再評価が行われるようになっていますが、そうしたことで新たな解釈や歴史の見方が開拓されていきます。

今回のテーマである「国際人・徳川家康」も、15年ほど前までは一般的な見方ではありませんでした。戦争ではなく貿易という手段で西洋諸国と交流しようという家康の試みは、資料を見ればちゃんと確認できます。にもかかわらず、そうしたことが国民の常識として定着せず、また同時期の西洋史との比較もあまり行われず今に至ってしまいました。

我々日本人は、今一度「駿府城外交」の功績に目を向けるべきではないでしょうか。

さて、ここでお楽しみの晩酌タイム

ところで、静岡県は古来から恵まれた水産資源を持つ地域としても知られています。

たとえば、山梨県の名産品に「アワビの煮貝」というものがあります。これは不思議な話です。海のない山梨県で、なぜか海の幸が名産品となっています。

これは武田信玄が、駿河湾からアワビを調達していたことに由来します。静岡県の海産物は歴代の領主に莫大な利益をもたらしていて、現代でも漁業は静岡県の主要産業になっています。

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その幸を生かした地域料理が、静岡おでん。黒いつゆで具を煮込み、食べる時はふりかけをまぶすというもの。静岡市の子供は、これを駄菓子屋で食べたりします。

とりあえず今夜は、近くの居酒屋でハイボールと一緒に。お疲れさまでした。

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【かぶら屋御幸町店】

〒420-0857 静岡県静岡市葵区御幸町4−2