【国際人・徳川家康】大御所の千里眼(中編)

【国際人・徳川家康】の中編。前編を見ていない方はぜひこちらから。

徳川家康とウィリアム・アダムス(三浦按針)との出会いは、日本史にとって大きなインパクトでした。

これは中世から近世へ移行するためには欠かせないプロセスであったと同時に、江戸幕府の創設者が決して外交に不寛容ではなかったという最大の証明です。

これをきっかけに、日本は室町時代以前の「山賊集団国家」から脱却していきます。

家康の「賭け」

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外国人を外交顧問にする。これは非常に大きな賭けです。

これが通訳や指導技術者としての採用だというなら、一切問題はありません。通訳は言葉を訳すだけで、政治に関わることはまずないからです。

ですが、現代はともかく中世や近世は「侵略するかされるか」の時代。特に内紛を抱えている国が強大な外国勢力に援助を求めることは、「我が国を植民地にしてください」と言っているようなものです。

インドや中東は、そうした流れでイギリスの植民地になってしまいました。

しかし、17世紀初頭のイギリスにはまだそこまでの力はなく、日本に侵略の手を伸ばすことは不可能でした。またイギリスはスペインのように、貿易相手の国の国民を改宗させようという意図は持っていません。

そうした国際情勢を見抜いていた家康を、つい最近まで「外交に疎い閉鎖的な政治家」と我々日本人は評価していました。

オランダ船しか来られなかった事情

ではなぜ、家康死後の日本が「鎖国体制」に陥ったのでしょうか?

これには、どうやら相手国の事情もあるようです。家康がこの世を去ったのは1616年ですが、その3年後にヨーロッパで三十年戦争が勃発しています。

この三十年戦争以降、西洋世界は戦乱に次ぐ戦乱を経験するわけですが、16世紀に隆盛を誇っていたスペインはこのあたりで衰退してしまいます。また、イギリスもエリザベス1世の死去以降は軍縮政策を実行し、結果的に国力の弱体化を招きました。

「軍縮」というといい響きのようですが、当時は海を舞台にした弱肉強食の時代。海軍戦力を小さくした途端、テームズ川に海賊が出没するという事態が発生してしまいました。その上、清教徒革命によりイギリスの王政そのものがなくなります。

つまり、17世紀当時に極東の島国と交易できるだけの余力を持っていた西洋国家はたった一国、オランダだけだったということが見えてきます。

江戸とジャワ島

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「オランダと交易していた」という事実を突き詰めると、それは「オランダ植民地と交易していた」ということになります。

ですから、日本はオランダ最大の植民地だったインドネシアとも交易を行っていました。

たとえばジャガイモは、家康存命中にジャワ島からもたらされたと言われています。運んできたのはオランダ船です。ジャガイモはサツマイモと並ぶ「救荒作物」で、痩せた土地でも難なく育つため飢饉の際は重要な食料になります。

江戸時代の日本の農村部はしばしば飢饉に苛まれていますが、そのたびにジャガイモとサツマイモが人々の命を救ってきました。

また、日本とインドネシアは共に繊維大国です。ヨーロッパでは産出できなかった良質の綿と絹を使い、様々な織物や染物を発明しています。インドネシアのジャワ島には「バティック」という伝統繊維製品がありますが、江戸期の日本ではそのバティックが流通していました。

バティックはロウケツ染めで、洗っても色落ちしないのが最大の特徴。このことは当時の日本の染物職人の間で大きな評判になり、どうにかバティックをコピーできないかという動きも起こりました。「染物は下手に洗ってはいけない」当時の常識が、見事に覆されたのです。

そのような文化交流の発端は、前編で書いた通り駿府城から始まりました。もし徳川家康が本当に「閉鎖的な政治家」だったとしたら、そもそも江戸幕府は2世紀半も存続しなかったのではとも感じてしまいます。

以下、後編へ。

前編:【国際人・徳川家康】駿府城から世界へ
後編:【国際人・徳川家康】忘れ去られた功績